この公演でみーちゃんが演じた役は、チーキ・ヴェイス。
ドイツ人の、自称活動家。主演の凰稀さん演じるアンドレ・フリードマン…のちのロバート・キャパの幼なじみ。
バウ初日に観て、顎が落ちた。
なんなの、この脚本。
この活動家、なんも活動してないやん……。
脚本上に描かれているチーキは、ただの使いっぱしりではないか。
アンドレにくっついて行くけど、彼の人生に影響を与える役割は担っていない。しかも、一緒なのも最初だけ。
2幕、いざアンドレが、その人生に於いて重要な物語となるスペイン内戦に向かう、そのときはお留守番ですよ。
正直、はらわたが煮えくり返った。
これが上級生さんの揃っている公演なら、仕方ないと思う。
だけど、少なくともみーちゃんは、そしてやはり為所がない(と言わざるをえない)アンドレの写真家仲間となるアンリ・カルティエ=ブレッソン役のちーちゃんは、この公演の番手で言うと二番目、三番目にあたるはずの生徒だ。
彼女たちに脚本の中で役割を与えられていないのだから、これはもうタカラヅカの物語として根本から間違っている。
それ以前に。
いくらなんでも失礼すぎやしませんか。
……うーん、出番が少ないであろうことは、なんとなく予想は付いていたのね。幕が開く前から。そういう面での期待は、最初から薄かった。
だけど、出番の問題ではなく。役割の問題として。
ここまで酷い話は無いだろう。
このことは、また別に書く(予定)。
なぜ、こんなことになっているのか。
それはもう考えた。考えて考えて考えた。
……病んだ(苦笑)。
だけど。
きっちり、みーちゃんが役を上げてきたから。
もう、そんなのはどうでもいいかな、って思えるようになっていった。
あ、この人、やっぱすごいわ、って。
最初は、芝居が埋まってなかったの(笑)。
みーちゃんは意外と不器用で、芝居が乗るのに時間が掛かる人だと思っている。口跡とかで騙される(笑)けど、演技自体はかなり不器用な人。
それで、板の上に乗ってから勝負がはじまる人だから。ほら、計算じゃなく基本、動物なので。
動物だけど(笑)、でも根っから生真面目なんだろうなあ。
人間が生真面目っていうのとはちょっと違うのかもしれないけど(おい)、与えられた役に対して、とても生真面目で、とても真摯。
まるで手を抜かず日々真っ向勝負、全力で役に取り組んでいた。
表面上の計算、ではない。
チーキ・ヴェイスとして生きる。
そのことに体当たり、と言うのかな。
見る見るうちに芝居が変わっていった。どんどん変わっていった。
公演を重ねる中で、チーキが息づいてゆく。
2時間半、常にチーキでいたい。
この公演中にみーちゃんがよくよく言っていた言葉だけど、出番の無い部分でも、チーキがアンドレを見守る目線のあたたかさとその奥にある強い意思が、常に舞台を支配するようになっていった。
アンドレの重要なパートナーとして、舞台にはいつもチーキがいた。
お留守番、ではない。
共に闘う仲間、パートナー。
フェデリコは銃を持ち、アンドレはカメラを持って闘った。平和な世界を求めて、己のできることで現状に立ち向かっていった。
そしてチーキは、そのアンドレを支えることで、共に闘っていた。
ここまで役を上げたのはみーちゃんがみーちゃんだからこそで、あんな酷い脚本の中で←、よく持っていったなあと、しみじみ思う。
そう。みーちゃんがみーちゃんだから。
この人、だてに春風弥里じゃない(素)。
二番手不在の脚本で、みーちゃんが自らの手で二番手の役割を勝ち取った、その力技をわたしは賞賛したい。
だから、最初は埋まってなかったけど(笑)。
どうしようかと思ったもの。
バウ初日と青年館楽では、チーキは別人です(断言)。
公演を経ていく中で凰稀さんとの間の信頼関係が深まっていったことも、役に大きく作用していると思う。
凰稀さんがみーちゃんに心を開いてくださり、みーちゃんをいつもあたたかく見守ってくださったことが、みーちゃんがチーキとして生きる上での大きな力になっていったはずだ。
青年館千秋楽。
みーちゃんは、アンドレと共に夢を見て、アンドレを支え、そして共に闘う頼もしいパートナー、チーキそのものだった。
わたしたちは彼の見た夢を一緒に見て、彼の希望を一緒に胸に抱いた。彼と笑い、彼に泣いた。
ここまで観客の気持ちを乗せ、その世界に巻き込んでいく攻めの芝居……というより、やはりみーちゃんはチーキそのもので、わたしたちはその魂に乗せられたのだと思う。
演技、という言い方…技術的な観点で見たら、気持ちのほうが前のめりすぎたと思うの(笑)。
前楽は力入りすぎてて、うわあ、みたいな。やりすぎっ。
大楽はそれよりは力抜けてたと思うけど、それでもまだ前のめりでやりすぎだったかもしれない(笑)。
だけど。それは、魂のチーキだった。
魂の籠もった、熱い、熱いチーキだった。
ラストの独白、「魂の記録」。
チーキの万感の思いに、ただただ泣けた。
このラストの言葉で、チーキ・ヴェイスのアンドレに対するす思いのすべてを理解できた。
彼がどれほどまでにアンドレを愛していたか。いつもアンドレを見守り支え、その喜びもその哀しみも一緒に受け止めてきたか。
彼にとってアンドレがどんなにか大切な友だったか。アンドレの戦いは、すなわち彼の戦いであった、そして。
それは、アンドレにとっても、間違いなく同じだったのだと。
チーキの思いと、彼をそうさせたアンドレの思いと。
あらゆるものが鮮やかに伝わってくる、限りない優しさと限りない強さに満ちた、深い、まさに魂の独白だった。
みーちゃんの魂の記録、宙組での集大成を、まざまざと見させてもらったこと。
しあわせだったの。とても、とても。
原田はあらためて呼び出したい。正座な(素)。
ドイツ人の、自称活動家。主演の凰稀さん演じるアンドレ・フリードマン…のちのロバート・キャパの幼なじみ。
バウ初日に観て、顎が落ちた。
なんなの、この脚本。
この活動家、なんも活動してないやん……。
脚本上に描かれているチーキは、ただの使いっぱしりではないか。
アンドレにくっついて行くけど、彼の人生に影響を与える役割は担っていない。しかも、一緒なのも最初だけ。
2幕、いざアンドレが、その人生に於いて重要な物語となるスペイン内戦に向かう、そのときはお留守番ですよ。
正直、はらわたが煮えくり返った。
これが上級生さんの揃っている公演なら、仕方ないと思う。
だけど、少なくともみーちゃんは、そしてやはり為所がない(と言わざるをえない)アンドレの写真家仲間となるアンリ・カルティエ=ブレッソン役のちーちゃんは、この公演の番手で言うと二番目、三番目にあたるはずの生徒だ。
彼女たちに脚本の中で役割を与えられていないのだから、これはもうタカラヅカの物語として根本から間違っている。
それ以前に。
いくらなんでも失礼すぎやしませんか。
……うーん、出番が少ないであろうことは、なんとなく予想は付いていたのね。幕が開く前から。そういう面での期待は、最初から薄かった。
だけど、出番の問題ではなく。役割の問題として。
ここまで酷い話は無いだろう。
このことは、また別に書く(予定)。
なぜ、こんなことになっているのか。
それはもう考えた。考えて考えて考えた。
……病んだ(苦笑)。
だけど。
きっちり、みーちゃんが役を上げてきたから。
もう、そんなのはどうでもいいかな、って思えるようになっていった。
あ、この人、やっぱすごいわ、って。
最初は、芝居が埋まってなかったの(笑)。
みーちゃんは意外と不器用で、芝居が乗るのに時間が掛かる人だと思っている。口跡とかで騙される(笑)けど、演技自体はかなり不器用な人。
それで、板の上に乗ってから勝負がはじまる人だから。ほら、計算じゃなく基本、動物なので。
動物だけど(笑)、でも根っから生真面目なんだろうなあ。
人間が生真面目っていうのとはちょっと違うのかもしれないけど(おい)、与えられた役に対して、とても生真面目で、とても真摯。
まるで手を抜かず日々真っ向勝負、全力で役に取り組んでいた。
表面上の計算、ではない。
チーキ・ヴェイスとして生きる。
そのことに体当たり、と言うのかな。
見る見るうちに芝居が変わっていった。どんどん変わっていった。
公演を重ねる中で、チーキが息づいてゆく。
2時間半、常にチーキでいたい。
この公演中にみーちゃんがよくよく言っていた言葉だけど、出番の無い部分でも、チーキがアンドレを見守る目線のあたたかさとその奥にある強い意思が、常に舞台を支配するようになっていった。
アンドレの重要なパートナーとして、舞台にはいつもチーキがいた。
お留守番、ではない。
共に闘う仲間、パートナー。
フェデリコは銃を持ち、アンドレはカメラを持って闘った。平和な世界を求めて、己のできることで現状に立ち向かっていった。
そしてチーキは、そのアンドレを支えることで、共に闘っていた。
ここまで役を上げたのはみーちゃんがみーちゃんだからこそで、あんな酷い脚本の中で←、よく持っていったなあと、しみじみ思う。
そう。みーちゃんがみーちゃんだから。
この人、だてに春風弥里じゃない(素)。
二番手不在の脚本で、みーちゃんが自らの手で二番手の役割を勝ち取った、その力技をわたしは賞賛したい。
だから、最初は埋まってなかったけど(笑)。
どうしようかと思ったもの。
バウ初日と青年館楽では、チーキは別人です(断言)。
公演を経ていく中で凰稀さんとの間の信頼関係が深まっていったことも、役に大きく作用していると思う。
凰稀さんがみーちゃんに心を開いてくださり、みーちゃんをいつもあたたかく見守ってくださったことが、みーちゃんがチーキとして生きる上での大きな力になっていったはずだ。
青年館千秋楽。
みーちゃんは、アンドレと共に夢を見て、アンドレを支え、そして共に闘う頼もしいパートナー、チーキそのものだった。
わたしたちは彼の見た夢を一緒に見て、彼の希望を一緒に胸に抱いた。彼と笑い、彼に泣いた。
ここまで観客の気持ちを乗せ、その世界に巻き込んでいく攻めの芝居……というより、やはりみーちゃんはチーキそのもので、わたしたちはその魂に乗せられたのだと思う。
演技、という言い方…技術的な観点で見たら、気持ちのほうが前のめりすぎたと思うの(笑)。
前楽は力入りすぎてて、うわあ、みたいな。やりすぎっ。
大楽はそれよりは力抜けてたと思うけど、それでもまだ前のめりでやりすぎだったかもしれない(笑)。
だけど。それは、魂のチーキだった。
魂の籠もった、熱い、熱いチーキだった。
ラストの独白、「魂の記録」。
チーキの万感の思いに、ただただ泣けた。
このラストの言葉で、チーキ・ヴェイスのアンドレに対するす思いのすべてを理解できた。
彼がどれほどまでにアンドレを愛していたか。いつもアンドレを見守り支え、その喜びもその哀しみも一緒に受け止めてきたか。
彼にとってアンドレがどんなにか大切な友だったか。アンドレの戦いは、すなわち彼の戦いであった、そして。
それは、アンドレにとっても、間違いなく同じだったのだと。
チーキの思いと、彼をそうさせたアンドレの思いと。
あらゆるものが鮮やかに伝わってくる、限りない優しさと限りない強さに満ちた、深い、まさに魂の独白だった。
みーちゃんの魂の記録、宙組での集大成を、まざまざと見させてもらったこと。
しあわせだったの。とても、とても。
原田はあらためて呼び出したい。正座な(素)。
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