大劇前半のジャスティンは、若く、優しさを前面に押し出した人だった。
それが中盤頃から、いわゆる「恐い」と評される(笑)人になった。イヴェットに詰め寄るところとか、全般に言い方がキツくなって。
大和さん自身は「大人の男」としての在り方を模索していたのかもしれないが、よく「恐い、恐い」と言われていた。私は「言い方じゃない、イヴェットに対する愛情は増しているのが見えるんだからあれでいい」と言っていたのだが。

大劇後半から東宝にかけて、それは修正されていった。ジャスティンは自然と「大人の男」として存在し、かつ愛情深い、いい男だったと思う。
こうなってみると、大劇中盤のジャスティンは、やっぱ恐かったんだわ(笑)。

基本的に脚本上のジャスティンというのは自分にだけ都合のいい勝手な男としか私には思えないのだが、これが大和悠河という非リアルを極めた役者の手にかかることで、男目線のリアルな都合のよさが中和され、ファンタジーの世界の王子として成立してしまうという。
すごい、半端なくすごいのだ、大和さんて。これが出来てしまう人なんて、今後もう出てこないんじゃないだろうか。

正塚が思うところの「タカラヅカテキじゃないかっこいい作品」って、大和さんだから、そしてウメちゃんだから。そう、「タカラヅカだからこそ」成り立ってるんだってことを、彼は絶対に理解していないだろうな。
そんな正塚の子どもっぽさは嫌いじゃない、ときもある(笑)。ジャスティンは許容範囲超えだったが、いろいろと。

脚本上のジャスティンに関して言えば「男目線の都合のよさ」がとてつもなく鼻につくのだが、それなのに正塚はそこを完全に「男のロマン、かっこよさ」と勘違いしていると思うのだ。や、かっこよくないから!かっこいいのはジャスティンじゃなくて大和さんだから!
さらに正塚は「かっこいいジャスティン=かっこいい俺=大和悠河みたいにかっこいい俺」と思ってそうなところがほっんと嫌だったわ(笑)。あのさあ、足の長さからして全然違うからっ!
私生活でも女に「君は僕の薔薇」とか真顔で言ってるんじゃないのか正塚っ、キモっ、みたいな。

いや、正塚の話は置いといて。
いろいろと変貌を経て、大人のいい男になっていったジャスティン、ラスト3回。

4日11時の友会貸切では、なんだか彼が淋しそうに見えた。よく言えば肩の力が抜けているというか、ほら大和さんて力抜けてるときの方が得てして良い芝居だったりするから(笑)ちょうどいい感も受けた。

ただ、大和さんが淋しいのかな、と思ってしまった。それは単に、私が淋しかったからそう感じただけなのかもしれないが。
卒業を目の前にしても、そういった方向に大和さんの芝居がブレることは、それまで殆どなかったと思う。それがここに来て、ふっと淋しそうな色にその目が曇ったりするものだから、もう私の方が混乱してしまった。

と思ったら、前楽。
噴煙が立ちのぼるほど力が入っていた(爆)。気合い充分といったところでもあるが、あのあのうはっきり言って「恐い」んですが(笑)。恐すぎてカンジ悪いよう。
もしもーし、午前のジャスティンとは別人なんですけど?やっぱ不思議な人だ、大和さんて。

でもね、イヴェットに見せる笑顔は、これまでのどんなときよりも最高だった。
カキーンってね。突き抜けるような、真っ直ぐな光の笑顔。

で、最後のジャスティン。大楽。
もう私にはジャスティンがどうとか、そんなことを考える余裕は一切なくなっていた。
最後のジャスティンは、一体どんな人だったんだろう。

どんな人だったんだろう。



ただ、大和悠河という人を見ていた。

私に出来たのは、それだけだ。

コメント